さてさて 「恨みつらみ」 (笑) そんなもんはありません でも ひっかかる想いは あるんです
以前の記事にも載せた写真なんだけど いまの 現在のみんなへ向けて この写真を選びました
後ろから
ボク
(高橋)松吉さん
(鈴木)光宏さん
三浦(恭資)さん
森さん
第1回ツールド北海道
第1ステージ
このメンバーで 最初の山岳から
100㎞ 逃げたものの
悪夢・・・
ゴールまであと 20㎞
5日間のステージレース
さてさて・・・ もう 2年かぁ~
なにを書こうか・・・ いまの想いを そのまま・・・
当時を想いだすと 現在とは環境がまったく 「逆?」 選手があふれ 箱がない・・・! まぁ~ しょうがない! だってみんな 強くって 走れる選手は多かったけど アマチュアリズム・・・ 走るためのプロ意識は身に着けていても 最終的な責務である 『育てる仕事』 後継に伝承する仕事 プロフェッショナルであれば 確実に履行していたはず・・・?
でも基本は 踏みつけられようが 這い上がっていくことができなけりゃ・・・ これは 僕たちができなかった事実!
限られた ファクトリーチームに所属していては 欧州へ渡る(海外で走る)路はなく でも 資金を得なければ 国内のレースすら走ることができない まあ 資金力のある選手 また個人の資金で 海を渡ることができる選手は 本当に恵まれていて・・・ とても素敵なこと?
そんな最中 僕の身のまわりの 多くの同世代の選手 また その下の後輩選手たちも 『行き場を見失い』 走る場所がなくなり 箱 チームがなかった時代は この時期の後 しばらくそんな時期が続くことになった・・・ 時代のせいだけではないんだけど ロードの選手で飯が食えない時代 砂糖に群がる蟻のごとく 蜜の入った「箱」には 僕ら後輩選手が とうてい入ることなど許されなかった・・・ そう これからまだ 10年以上 ガッツリ前線で走る 欧州を目指す選手でも これからの選手達は 「ダイヤモンドの原石が 磨かれることなく」 海を渡るどころか 国内の環境ですら走ることができず 選手を辞める以外の選択肢がなかった・・・ そんな環境 そんな時代だった
その当時より 日本ではレースの数が(欧州と比べ)少ないんだけど まあ 3月からは毎週末 必ず遠征に出る! 公式レースが無い時には 地域のレースに出場したりと 10月末まで続くシーズン転戦を続けていた・・・ レースの間隔が開くような場合は トラック(ベロドローム)で 各種目(ポイントレース 4000m速度 4000mTパーシュート それぞれ予選と決勝 また 1000mTTはマスト!) トラックでは 1日に 何本もレースを走る・・・
そうそう でも トラックでのレースだけでは 「距離が足りない?」 「負荷が足りない!?」 (シーズンの)メインに向けたレースのためには 練習が足りない! なので トラックでの種目を走り終えた午後 小田原競輪場で走り終えた後など 箱根にロード練習へ向かう トラックでレースを走った後 ガッツリ100㎞・・・ 1時間で終了するクリテリウム また 修善寺でのレースなんか 16周(15週半) たった80㎞ 1時間とか 1時間半とかのレースしか走っていないので そんな短いレースの後なんかも 修善寺のレースを走った後 熱海の峠 丘陵地帯へ練習に出ることが あたりまえ 当然だった
シーズン期間 月に 3000㎞(レース 練習を含め)乗ってなきゃ 脚は創れないし レースでも話にならない まあ あたりまえ 現在でも昔でも プロだったらこんなもん・・・
始めて 僕が Nichinaoで 森さんと修善寺のレースに参戦したとき チームでは 僕と森さんの2人 監督がサポートカーをドライブして3人で参戦した時 森さんは表彰台に上がり 僕は着外で レース後 森さんが着替えない・・・ (僕も 着替えることができず・・・ 様子を見ると) 「じゃあ セイちゃん ちょっと行こうか・・・」 (『まだ走るんだぁ~』) 『解りました』 やっと納得!
前の記事にも書いているんだけど Nichinaoでの練習は 最初っから 「ガチのレース」 脚をためて走ることなど まるっきり許されず その逆で 「これでもかって」 脚を使って走る!(「森さんより脚を使って 森さんに勝つ」 そんな強い想いの基 みんな・・・!) 脚も 精神も 叩き上げられる! どんなときでも真剣勝負 毎日 毎日・・・ なので レースに出ている方が よっぽど楽だった! マジで
「厳しい練習」 厳しい走り 僕は Nichinaoで 森さんから学んだ
もんく言いながら伝承します
http://charipro.blogspot.jp/2014/12/blog-post_27.html
(そんなの ちょっとだけ書いてます)
遺していった仕事 僕と森さんと Nichinao SiDI Campagnolo
http://charipro.blogspot.jp/2014/04/nichinao-sidi-campagnolo.html
こっちにも・・・!
当時の トップを走る選手はみな 欧州のレース 選手を意識して 国内のレース レベルを創り走っていたことは 紛れもない事実で 厳しいレース展開は 真に研ぎ澄まされてた・・・!
そんな時代に闘ってこれたことは 僕の誇り・・・ でも 想い残すこと 悔いは はかり知れないんだ!
森さんと また会うことがあれば きっと 「セイちゃん 調子はどお?」 目を合せることなく そんな言葉からだろう・・・ その後に 「いま ヤビツ何分・・・?」 「どのくらい乗っているの・・・?」 まぁ~ いつまで経っても変わらない(笑) しかも 残していった仕事の 後始末 知っちゃいないし
僕しかやる奴 いないので しょうがないから・・・
森 幸春 (一周忌)
http://charipro.blogspot.jp/2015/03/blog-post_31.html
ご質問 問い合わせなどは ココ
charipro SeijiSaito
Official website:http://www.charipro.com/
以前の記事にも載せた写真なんだけど いまの 現在のみんなへ向けて この写真を選びました
後ろから
ボク
(高橋)松吉さん
(鈴木)光宏さん
三浦(恭資)さん
森さん
第1回ツールド北海道
第1ステージ
このメンバーで 最初の山岳から
100㎞ 逃げたものの
悪夢・・・
ゴールまであと 20㎞
5日間のステージレース
なにを書こうか・・・ いまの想いを そのまま・・・
当時を想いだすと 現在とは環境がまったく 「逆?」 選手があふれ 箱がない・・・! まぁ~ しょうがない! だってみんな 強くって 走れる選手は多かったけど アマチュアリズム・・・ 走るためのプロ意識は身に着けていても 最終的な責務である 『育てる仕事』 後継に伝承する仕事 プロフェッショナルであれば 確実に履行していたはず・・・?
でも基本は 踏みつけられようが 這い上がっていくことができなけりゃ・・・ これは 僕たちができなかった事実!
限られた ファクトリーチームに所属していては 欧州へ渡る(海外で走る)路はなく でも 資金を得なければ 国内のレースすら走ることができない まあ 資金力のある選手 また個人の資金で 海を渡ることができる選手は 本当に恵まれていて・・・ とても素敵なこと?
そんな最中 僕の身のまわりの 多くの同世代の選手 また その下の後輩選手たちも 『行き場を見失い』 走る場所がなくなり 箱 チームがなかった時代は この時期の後 しばらくそんな時期が続くことになった・・・ 時代のせいだけではないんだけど ロードの選手で飯が食えない時代 砂糖に群がる蟻のごとく 蜜の入った「箱」には 僕ら後輩選手が とうてい入ることなど許されなかった・・・ そう これからまだ 10年以上 ガッツリ前線で走る 欧州を目指す選手でも これからの選手達は 「ダイヤモンドの原石が 磨かれることなく」 海を渡るどころか 国内の環境ですら走ることができず 選手を辞める以外の選択肢がなかった・・・ そんな環境 そんな時代だった
その当時より 日本ではレースの数が(欧州と比べ)少ないんだけど まあ 3月からは毎週末 必ず遠征に出る! 公式レースが無い時には 地域のレースに出場したりと 10月末まで続くシーズン転戦を続けていた・・・ レースの間隔が開くような場合は トラック(ベロドローム)で 各種目(ポイントレース 4000m速度 4000mTパーシュート それぞれ予選と決勝 また 1000mTTはマスト!) トラックでは 1日に 何本もレースを走る・・・
そうそう でも トラックでのレースだけでは 「距離が足りない?」 「負荷が足りない!?」 (シーズンの)メインに向けたレースのためには 練習が足りない! なので トラックでの種目を走り終えた午後 小田原競輪場で走り終えた後など 箱根にロード練習へ向かう トラックでレースを走った後 ガッツリ100㎞・・・ 1時間で終了するクリテリウム また 修善寺でのレースなんか 16周(15週半) たった80㎞ 1時間とか 1時間半とかのレースしか走っていないので そんな短いレースの後なんかも 修善寺のレースを走った後 熱海の峠 丘陵地帯へ練習に出ることが あたりまえ 当然だった
シーズン期間 月に 3000㎞(レース 練習を含め)乗ってなきゃ 脚は創れないし レースでも話にならない まあ あたりまえ 現在でも昔でも プロだったらこんなもん・・・
始めて 僕が Nichinaoで 森さんと修善寺のレースに参戦したとき チームでは 僕と森さんの2人 監督がサポートカーをドライブして3人で参戦した時 森さんは表彰台に上がり 僕は着外で レース後 森さんが着替えない・・・ (僕も 着替えることができず・・・ 様子を見ると) 「じゃあ セイちゃん ちょっと行こうか・・・」 (『まだ走るんだぁ~』) 『解りました』 やっと納得!
前の記事にも書いているんだけど Nichinaoでの練習は 最初っから 「ガチのレース」 脚をためて走ることなど まるっきり許されず その逆で 「これでもかって」 脚を使って走る!(「森さんより脚を使って 森さんに勝つ」 そんな強い想いの基 みんな・・・!) 脚も 精神も 叩き上げられる! どんなときでも真剣勝負 毎日 毎日・・・ なので レースに出ている方が よっぽど楽だった! マジで
「厳しい練習」 厳しい走り 僕は Nichinaoで 森さんから学んだ
もんく言いながら伝承します
http://charipro.blogspot.jp/2014/12/blog-post_27.html
(そんなの ちょっとだけ書いてます)
遺していった仕事 僕と森さんと Nichinao SiDI Campagnolo
http://charipro.blogspot.jp/2014/04/nichinao-sidi-campagnolo.html
こっちにも・・・!
当時の トップを走る選手はみな 欧州のレース 選手を意識して 国内のレース レベルを創り走っていたことは 紛れもない事実で 厳しいレース展開は 真に研ぎ澄まされてた・・・!
そんな時代に闘ってこれたことは 僕の誇り・・・ でも 想い残すこと 悔いは はかり知れないんだ!
森さんと また会うことがあれば きっと 「セイちゃん 調子はどお?」 目を合せることなく そんな言葉からだろう・・・ その後に 「いま ヤビツ何分・・・?」 「どのくらい乗っているの・・・?」 まぁ~ いつまで経っても変わらない(笑) しかも 残していった仕事の 後始末 知っちゃいないし
僕しかやる奴 いないので しょうがないから・・・
森 幸春 (一周忌)
http://charipro.blogspot.jp/2015/03/blog-post_31.html
ご質問 問い合わせなどは ココ
charipro SeijiSaito
Official website:http://www.charipro.com/