20130419

先輩が道を創ってくれた 大事な仕事







僕には恩師がたくさんいてさぁ~
自転車の人生を選んだのも 駒沢の エノモト極悪兄弟がいたからで ホタルレーシングのみなさんと 谷島先輩を追って自転車部へ入って 高校生の時から フレームやパーツの供給をしてくれた カラビンカの田辺さん  初めてはいった実業団チーム(サカエ)では 高田さん(たかだフレンド)には 自転車のこと以外 公私共 また技術者としての仕事も教えてもらって・・・

ずいぶん前のことになるんだけど でも つい最近のように 思いだす

茨城(サカエ)で 3シーズンを走って ある程度 結果を残して 実績もつくって 自信も確実なものになって 次のレベルへ進むべく オフになるのと同時に 東京へ戻ってた まあ ようは仕事を辞めて あてもなく戻ってきたんだけど・・・ ってことで 無職になって ぷー太郎! アルバイトを始め出した もちろん 選手を続けるためのステップのつもりなので 「練習」が主軸での生活だ

まだ当時 国内の環境では そう簡単に海外への道を選択する時代ではなくって 自力で行くほどの 経済的な余裕もなく だからと言って メーカーチームの門を叩気は全くなかった じゃ~ どおしよう~ とりあえず(失礼) まだオフなので 東京の実業団チームのパールイズミさんに入れてもらって 週末は一緒に練習をしていた・・・

ぷー太郎生活もなれた感じで まぁ~ 貧乏サイクリストってのがつづき・・・ (まあ なんとなく充実していましたね!) 練習帰りに 駒沢のエノモトで しょっちゅう ぐたぐたしてて (まるで 自転車小僧) そんな時 たまたま ミヤタ(宮田工業)の営業の 土山さんが来てて 「サイトウ君は これからどおするの・・・」 なんて話になって 『今シーズン どおしようかなぁ~』 なんて話をしていたら・・・ 土山さんが 「そうそう 森君が 日直(ニチナオ)で走ってるみたいだよ」「サイトウ君のこと 言っておくから 電話してごらん・・・」って!(マジ?)

レースでは 全国レベルの選手とも ようやく 度々絡む展開で走れるようになって・・・  レース後のシャワールームとかでも 森さんから話しかけてもらったりはしてたけど まぁ~ 雲の上の存在であった 森さん宛に 電話! 恐る恐る 日直(日直商会)へ電話を掛けた・・・ 

プルルル・・・ 「はい ニチナオ しょうかいです」
『サイトウと申します』 『森さん いらっしゃいますか?』

「モリは 僕ですが・・・」 えっ いきなり 森さん!?

『あのぉ~ (ビビりながら) ミヤタの土山さんから・・・』
「サイトウ君だろ 調子はどお?」「話は聞いています・・・」「いま 何してるの?」「どこで走ってるの?」・・・ えぇ~とぉ~
「一度 話をしましょう・・・」 ってことで 後日 外神田の事務所へ・・・

透明なガラス張りの 1階に 日直商会の事務所が・・・ 歩道からは 中の様子が丸見えで 入ると直ぐに 4っのデスク・・・ 中に入ると 森さんの他 3人がいて 『えっ 日直商会って これだけ・・・?』 (茨城の 何百人もいる サカエの工場の 研究室に勤務していたので・・・)
とりあえず 緊張バリバリ だったんだけどぉ~ なんかみんなで 僕の話をしてくれて・・・ とんとんとん と チームに入ることになって 入社することにもなった! (『なになに そんな簡単に いいの?』)

そうそう・・・
事務所の奥が倉庫になっていて(当時) 輸入パーツが山積みになっていて~ (宝の山に見えた マジ!) 森さんが 「クランクの長さは?」「枚数は?」「シューズのサイズは?」・・・ 次々と 奥から 箱入りのカンパのパーツなんかが持って来られて・・・ シディーのボストンバックに 入りきれないほど 「とりあえず 1台分組めるよね・・・」 って ウエアーも何着かと リム スポーツ タイヤ・・・ そのうえ 「フレームは 何に乗る?」! ホント!マジかよぉ~

そう その時に 森さんと一緒に 迎えてくれたのが 関さん(関 正邦さん)だった!

ニチナオ ・ シディー ・ カンパニョーロチームの監督としてだけではなく ホント なにから何まで(?) 酒の飲み方とか いろいろ(大ぴらには言えないこととか・・・)! 先輩です

そして今年から 来週には 3回目のセミナーを控えて 『僕は なにを返せるのだろう』 と 考える・・・ この ちょっと前の写真なんだけど 修善寺のCSCで撮った時の 翌日に帰った気持ちで また始めようかと思う